どういう人で在りたいか
私は時々ふっと思うことがある
自分は、自分の居る今の立ち位置は
社会的に見て、どういう場所に居るのだろう と。
仕事。
自分としての評価は可もなく不可もなく、
言われたことはもちろん、言われるであろうことを早めに済ましておけば基本何も言われることはない。大抵の人は上辺の猫かぶりの、猫の部分しか見てないのだから。
一年か二年で部署を変えて全く違う業種の仕事をやらされることになるウチの会社は、基本何事にも動じず与えられた課題をこなしていく強さが必要だ。
本当に色んな事を経験するし、人間関係も時に面倒な事になったりすることもある。
実際この会社に入った時、数ヶ月して初めの異動が行われた。というのも
社長が自ら出向いてきて、「君は、どういう人で在りたいか」と聞かれた。
若かった私は、最初質問の意図が分からずに「お金を人並みにもらえたら、なんでもいいです」って言ってしまった。仮にも社長の前でだ・・。
そして異動となるのだが、行き先は高層ビルの・・清掃員。
ドラマとかで見るイメージとはかけ離れていて衝撃を受けた。
下っ端ってこんなことするんだ・・と驚いたのもあるし、
社長と話したという噂だけが広まり、小さないじめにもあったのだ。
数ヶ月で異動・・派遣みたいなもんかな?ってその時は思っていたし、
この小さないじめも学生時代の出来事に比べると可愛いものだったから特に気にすることもなく。
人間関係も改善しないまま月日は流れ、1年が過ぎた。
4月・・新入社員が新たに入ってくる時期だ。
私にも初めて「後輩」というものが出来た。
その頃の私は「低給」の「サビ残」生活をしていたので他人に構う余裕は全くといっていいほど無かった。
・・・いや、実際の所「なんで俺がそこまでしないといけないんだ」って気持ちしかなくて、教える気持ちはハナからなかったのだろう。
生きてるだけで本当に精一杯だったのだ。
それを証明するのには、現場を見れば明らか。
私と一緒に入った同期はもう一人もいなくて、
眼の色を失った先輩方数名(毎日博打や違法すれすれの話しかしない)と私、そしてまだ希望に満ち溢れていて元気一杯の後輩・・という異質な雰囲気だったからだ。
この後輩ちゃんも、きっと長くは持たないだろうなと思って最初は相手にしなかった。
本当に酷い奴だと思う。この時は自分の心を保つので精一杯だった。
それでも、後輩は元気であの時私がイヤイヤやっていた業務をスピーディに終わらせていく。
その姿を見ている内、
「あぁ、こいつはこんな場所にいるのがもったいない位凄いやつだ」
と思えるようになってしまい、その日から急に自分でも驚くほどに
後輩に丁寧に、私の知っている技や知識を教えていた。
その日は今でも忘れられないくらい、心が晴れやかでスーッとなにかが抜けて消えていくのを感じていて、社宅に帰って涙を流した。
後輩ちゃんと話すようになって、それまで見えていたつまらない世界というのが違って見えてくるようになった。
何をするにも、不思議と楽しいと思えてしまうのだ。
雇用の待遇は改善しないままなのだが、それでも・・まぁ、いいかなって思えてしまう。
不思議でしかなくて、私もついに壊れてしまったのだろうかと考えてしまうほど社会を憎まなくなっていた。
後輩は偉大だった。
どんな仕事でも「元気に」「明るく」こなしてしまうし、
愚痴ることもなく、遊ぶこともない(飲みに誘っても行かなかった)
仕事が終わるといつもすぐに帰ってしまって、仕事以外の後輩を私はずっと知らないでいた。
正直、少しずつ後輩のことが気になっていたし、もっと仲良くなりたい。
そう思うようになってしまっていて、自分でも歯止めが効かなくなっていたのだろう。
ある日、後輩に「なんでこの職場に来たの?」ってシンプルに聞いてみた。
理由は思ってるよりも簡単で、それでいて凄まじいものだった。
「私、学がなくて・・ここしか内定もらえなかったんですよ。それに、入院している弟の病院。すぐそこなので丁度いいかなって」
えっ、この給料でやっていけてるの?って聞こうと思ったけど、辞めた。
やっていける筈がないってもう、自分でも分かる事だったし・・。
「そうなんだ」としか言えなかった。
ことなかれ主義 というやつだ。
後輩は察したのか、無理して明るく振る舞っていた
「気にすることないですよ、私はここで働けて幸せなんです」
そのあと適当に話してその場の話は終わった。
正直、納得行かなかった
こんなにも頑張っている後輩が、この部署にいて良い訳がない
彼は病院で弟の面倒も見ているのに、この給料でやっていけるはずもないんだ。
私に仕事のやりがいを与えてくれた後輩のために、何かしたくて・・その日の就業後急いで着替えて人事部長を訪ねた。
人事部長とは面接で会って以来だったのだが、相手は私を覚えてくれていた
「何かありましたか?」と優しく語りかけてくれた人事部長を前にして
私は後輩の置かれた状況、そして勤続態度等を話して、彼をもっと評価してやってはくれないかと頼んだ。
人事部長は驚くほど簡単に頷いてしまった
「まだ9月だ。この時期は中途採用なんてのもやっていてね、彼をこの枠で入れられるよう、考えてみよう。努力は彼次第とだけ伝えておいてくれ。」
私はただただ感謝するしかなくて、ありがとうございますと何度も言っていたような気がする。
後輩はそれだけのことを私にしてくれたのだから、当然のことなのだが。
それから次の日、後輩に説明して、応援した。
彼は戸惑っているように見えたが、やはり嬉しそうだった。
「先輩とお別れになるんですね」と泣いていた。
私ももらい泣きしてしまった。
数日後、後輩の居なくなった職場を見た日
光が失われたのを感じたが、後輩に会う前と会った後では、
また違った世界が見えていた。
仕事がつまらなくないのだ。
それだけでまだ私は頑張れると、そう思った。
次の年、4月になる少し前に知らない番号から電話が来た
「もしもし、○○ですが、元気にやっていますか?」
声の主は驚くことに、社長だった。
元気にやっています。この仕事を紹介していただき、ありがとうございました。
とだけお礼を言ったのだが、ここからまた社長が以外な事を言う。
「清掃業は慣れたみたいだね、それじゃ今年から君は別のところにいってもらうよ」
4月。
何故か私は入社当時に居た支店という場所ではなく「本社」に戻された
清掃業は本社ビルを清掃する「サブ」の立場であるのに対し、
本社は「メイン」だ。
社長のこの人事の意図ははっきり言ってわからなかった。
でも、どんな仕事でも頑張ろうと思えていた。
新入社員に向けた、社長のスピーチが始まる
会社の経営理念だの、色々と聞かされ、復唱させられた。
会社の手帳というのがあって、そこに社訓がびっしり書かれているのだ。
本社の人間はこれを丸暗記しないといけないらしく、中高年の方たちは手帳を見ること無くスラスラと復唱していた。
これが「社会」か・・正直美しいとこの時は思った。
人と人が無駄な衝突を避ける為に構築された「規則」という見えないモノに縛られて、
無意識の内に大衆が綺麗に並んでいて、管理される。
一人ひとりが監視し合い、自分で自分を律するというのか・・高貴な雰囲気ができあがっていたのだ。
正直私は場違いなんじゃないかって思ったのだけど、
新入社員みたいなものだしいいか、これから頑張ろうと軽く考え直していた。
気づかない内に後輩からもらったポジティブを身に着けていたのかもしれない。
私は営業部署に回された。
最低~件はもってこいなんて体育会系みたいな人に言われて、
頑張るか―!と奮起してがむしゃらにやっていった。
結果、初月「0件」
がむしゃらにやるだけではやっぱりダメなのだ。漫画みたいにはいかない。
世間は思ったよりももっと冷え切っていたのだ。
次の月「0件」
無能!と言われてたたかれまくった。
肉体的に痛くはなかったのだけど、心が痛かった。
だってみんな、最低1件とかは取ってきてたんです。
私はトークスキルないし、突っ込む勇気なんてのも中々湧かない人なので
かなりこの時は苦労しました。
次の月も「0」
ついに1件も取っていないのは私だけという状況になり、同期からも冷たい目で見られるようになりました。
私には向いてないんじゃないかと思って、人事部長ではなく社内のカウンセラーに相談してみました。
これが驚くほど親身になって聞いてくれるので、思わず愚痴ってしまう始末。
ハッと我に返り、謝ったのですが「いいんですよ、皆悩みを抱えているので我慢しないでください」と笑顔で答えてくれて、なんだか次の日も頑張れそうな気がしてしまった。
そして次の月・・
「0」
あぁ。
ダメだ、うん、単純にこの部署向いてないわ。
人間頑張ってダメなこともあるんだ・・そうだ、きっとそうだ。
自分を正当化するのがやっとだった。それくらいこの時は精神的にキていたのだと思う。
それを見かねた上司が、それまでキツかったあの上司が
なんと、部署変えを勧めてくれた。
上司ってやっぱり、見る目がある人が多いのかな。
心を見透かされた気分だった。
部署が変わって、この営業部を去る時に上司からひとつ聞かれた
「君は、どういう人で在りたい?」
あっ・・・これだ。
すべてここから私の社会ははじまったんだ。
私は決意を固めて、今度は真剣に答えた
「どのような仕事でも全力を出す人で在りたいです。無理な時やきつい時は、誰かに素直に頼れる人にもなりたいです」
上司は心なしか満足そうだった。
「そうか、がんばれよ」
そう言って、上司から季節外れの卒業証書をもらった。
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何故か昔の事を急に書きたくなって書いてしまいました。
今はまた違う部署で頑張っていますが、こんなに良い経験出来たのは
清掃と営業の2つくらいですかね。
今はもう歳とってるので、私も大衆の一人、とるに足らない存在になってしまったように思います。
でも、この経験はずっと忘れないし、これからも宝物として持ち歩いて行こうと思います。